アフガニスタンの子どもたちに吹く風

初めてのアフガニスタン  その1-2003年6月12日

6月12日 イスラマバードからカブールへ

 今日はいよいよ初めてアフガニスタンへ足を踏み入れる日である。昨日は朝8時20分にホテルを出発しペシャワールのアフガン難民キャンプ地区まで出かけ、ホテルに帰ってきたのが午後7時半頃であったのでかなり疲れた感じはしたが、今朝4時半頃には目が覚めてしまった。ベッドで横になりながら、今後のことを考えながらメモしたりして、7時半頃ベッドを離れ着替えて1階の食堂へ出かけた。

 食事後、通信カウンターで昨日も不調に終わったカブールと日本へのFAX通信を頼むが、担当かかりが、依然として国際電話はビジーと返事する、でも何とかカブールSAC事務所には送付できたようだ。

我々3人のイスラマバード―カブール間の航空券(12Jun:Islamabad-Kabul:19Jun-Islamabad)は2日前の6月10日にPIA事務所で購入した(一人$240:17,440Psパキスタンル゚ピー)が、その時ザヘル氏は入手できずキャンセル待ちであった。そのため、ホテルを10時に出発して飛行場へ向かう途中PIA事務所でザヘル氏を下し、我々は一足先に10時40分頃空港に着いた。空港ロビーで、日本のNGOのアフガンでの義足支援活動の取材のためにカブール入りする日本のTVクルーと一緒になった。今回は我々と一緒のKさんは昨年、この義足支援NGOとともにカブールを訪問した、と言っていた。出国手続きが始まったが、検査、チェックまた検査、チェックと数回、大変です。搭乗待合室で再度、義足支援NGO代表のK氏やTVクルーと一緒になり、地雷被害者の家族への影響など取材狙いも耳にした。ボーディング開始直前にザヘル氏が姿を現した、ほっとする。

     

イスラマバードのホテル      イスラマバード国際空港待合室  カブール空港入国審査の天井が剝れている

搭乗前に再度チェックがあり、やっと機内に入った、サーベは搭乗券通りの席に座り、私は自分の座席に向かったが、既に見知らぬアフガン人らしき人が座っていて、何を言おうと全く席をはずす気配は見せない、困惑していると、アテンダントが手招きした、そしてファーストクラス席にKさんと2名を案内した。既に、TVクルー一行はファーストクラスに座っていた。アテンダントはオーバーブッキングを予想していたような対応であった。とにかくやっと席に着いた。13:30、PK251便はカブール空港に向けイスラマバード国際空港を離陸した、言葉では表現できない気持ちの高ぶりを感じた。

 険しい山々の頂が窓の直ぐ下に見える、山頂すれすれに飛んでいる感じ、飛行機が高度を下げ始めた、カブール上空、茶褐色の家々が整然と並んでいるように見える。高度を更に下げ着陸態勢に入ると、家の周りを土壁で囲んだ平屋建の家、庭も見える、家は日干し煉瓦造りのように見える。

 窓からコンクリート造りと思われる建物が見えた途端、ドンという軽い衝撃を受けて着陸した。壊れて傾いた飛行機の残骸や大きな鉄くずの塊がちらっと窓越し見え、しばらくして飛行機は停止した。タラップを降りると、外壁が大理石張りの建物が目に付いた、ターミナルだろう、奇麗だなと思った。その建物ターミナルに入り、簡単な入国検査を済ませて、荷物の受け取り場へ向かいターンテーブルの前に進んだが、ターンテーブルは動いていない、ターンテーブルに荷物が積まれて出てくるべき口に人々が群がり荷物を引っ張り出している、大きな声が飛び交い騒然としているが、何故か良い雰囲気が漂い、不思議なくらい危険という感じは全くしない。荷物に群がっていた人々はポーターで取り出して運んで何がしかのチップを受け取るのだと後から聞いた。混雑の中、やっと我々の荷物全部を確認した、1時間ほど過ぎていた。ターミナル出口の正面でSAC関係者と思われる人たちが出迎えてくれた、宿泊先のゲストハウスのオーナーも一緒だったと後から知った。迎えの車ランドクルーザーでSAC仮事務所へ向かった。車窓から茶褐色の山腹に階段状に家々がかなり上の方まで見える、あれらは平地に家を建てることが出来ない貧しい人々が無許可で建てた不法建築物で、監視の目を盗んで一夜で建てる者もいると、それにしても市内にあるあちこちの山に見られる、すごい数である。ちらっと畑らしいものも見える、道路端の屋台には果物が積まれている、町全体に活気が感じられる。でも、壊れた建物や銃弾の跡が無数みえる傾いた建物などが次々と現れ破壊つくされた街だ、長期の内戦と混乱の凄さを肌で感じる。

  

SAC仮事務所(借家)              車椅子支援のお礼セレモニー     破壊された建物

 メイン道路から脇道に入り、やがてSAC仮事務所建物の門の前で止まった。カブールの責任者サイエド・レザ氏が出迎えてくれた、少し高血圧気味で体調が優れないと言っていた。今日は木曜日のため、このSAC仮事務所兼孤児施設で預かり面倒をみている子どもたちは親族の家に帰っていて不在である。子どもたちは木曜日の午後に親族の家に戻り、休日の金曜日を過ごして、土曜日の朝この施設に戻ってくるという。SAC仮事務所はコンクリートとレンガ造りの3階建てで、予想していたよりずっと奇麗であった。

 支援物資荷物などをSAC仮事務所で下して、今日から宿泊するゲストハウス(朝、夕2食付き1日$35)へ行こうとしていた時、アフガンで車椅子支援活動をしているNGO(名古屋、代表O氏)に対するお礼セレモニーがそのゲストハウスで間もなく行われると言われ、歩いて2,3分のゲストハウスに急いで向かった。

 門を入った直ぐにある前庭でセレモニーが始まった。サーベ代表も急に通訳として飛び入りし、日本のTVクルーが撮影した。数人のアフガン関係者もおり、地雷被害で歩けなくなったアフガン男性が子とともにお礼を述べた、また別の車椅子の男性も謝辞をした。

 セレモニーも終わったので、2階の宿泊部屋に荷物を置き窓から外を見たら、破壊された建物の向こうに道路を隔ててSAC仮事務所が見えた。1階の広い部屋(ロビー兼食堂兼寝室)に下りていくと先ほどの車椅子支援活動NGOのメンバー3人がいた、このゲストハウスで寝泊まりしていると言う。NGO活動の先輩として、雑談しながらいろいろと教えてもらった。

 先ず、車椅子を日本からアフガニスタンまでの輸送について、当初、日本からパキスタンまで船で、その後鉄道を利用してペシャワールからカブールへ運ぶ計画をした。(アフガニスタンに入国前、パキスタンイスラマバードで滞在し、この時ペシャワールのアフガン難民キャンプ地区へ出かけた。その時鉄道線路は目にした)。しかしコストの関係で、日本から上海まで船、上海から中国国内の鉄道を利用して、カブールへ輸送したが、40フィートコンテナ3台で450万円かかった。続いて、JICA職員は給料80万円ももらっているとか在カブール日本大使館への不満に話しが移り、民間レベルでの支援活動は非常に辛いことが多いと言われた。

現地カブールの障害者協会(車椅子協会?)は名前だけであまり信用できない雰囲気だと、支援活動は自分の目で確かめ、本当に必要としている人に与えることが第一で、誰かに依頼すると支援物資がその先どうなるか不明が多い、例えば支援として届けられた救急車を一人の医者が個人的に使用している。また、アフガン人は物を欲しがるだけで、自分たちで何とかしようとしない。日本の戦後、人々は物不足で苦しみながらも、自分たち何とかしようと、工夫をして物をつくった。思考が違う、支援活動で深入りしない方が良い、と。日本人は金だけを出しているだけだ、と言われている。この国は、国連治安部隊と日本の援助が無くなったらまた、不安定な状態になる気がする。半年後に行われる選挙でカルザイ大統領がどうなるのかも予測できない、とも。障害者のための車椅子や義足支援活動は、今、国際赤十字がイタリア人チーフの元で活動しているので、日本の民間支援NGOとバッティングしている。カブールでは車椅子支援はもう必要ないのでは、とも言っていた。

カブールの電気、水、排水(下水)などのインフラ整備は進まなくて不衛生であるが、衛星テレビや携帯電話は予想以上に普及しており、アンバランスを感じる。

 私が、カブールに孤児施設と学校建設のための来ている、と知って、地震に強い鉄筋コンクリートの立派な建物を造っても、将来都合のよいように他の目的で利用する可能性が高い。一般の普通の民家は日干しレンガ造りだ、もし地震など災害が起こり、その施設学校だけが残っても意味がない、その施設に高額を使うより、もっと低額でそんなに強くない建物を沢山造るべきだ、と。

私はそうは思わないが、反論はしなかった。

 また、車椅子支援活動NGOのH氏(AJI?)が、日干しレンガ職人は1日1000個作り、250AF(1$=48AF)の収入を得ている。リサイクル品(使用済、中古品)を安く輸入すると、この国での雇用に影響する。日干しレンガの場合、レンガをロバ車で運ぶ、その道を整備する人がいる。

そう言えば、義足支援活動NGOのO氏がアフガン社会の一族主義、血縁集団(親族)の身内重視の扱いに留意するようにと、言っていた。混沌とした社会で、信頼できるのは身内だけだと、考えるのは自然ではないだろうか。

 部屋に引上げて、NGO活動の奥深さ、様々な要因を考慮して活動することなど、私の頭も混乱し始めた。

 やがて食事の準備ができたとのオーナーの声で、皆一緒に夕食を囲んだ。テーブルの上に、スイカ、トマト、キュウリ、米、ナン、豆類と鶏肉の煮込みが大皿に盛られて出された。各自、好みに合わせて小皿にとり、雑談しながら楽しくいただいた。味がどうとか、固いとか特に感じることもなく空腹に任せて食べた。

 9時少し過ぎた頃、2階の自分の部屋に戻ったが、何となく腹の調子が良くない感じがして、シャワーを使うのをやめてベッドに寝転がった。しばらくして、腹の違和感でトイレへ、軟便であった、水で流した。アフガニスタンへ行くと殆どの日本人が、腹を壊す、と聞いていたので、持参した百草丸を初めて飲んで寝た。空気が乾燥しているのだろう、秋のような涼しい風が窓から入り暑さを感じないで寝入った。

アフガニスタン紀行(岩村忍著、朝日文庫)に、初めてカブールに来た日本人は必ず下痢する、という内容が書いてあった。