アフガニスタンの子どもたちに吹く風

初めてのアフガニスタン  その1-2003年6月12日

6月12日 イスラマバードからカブールへ

 今日はいよいよ初めてアフガニスタンへ足を踏み入れる日である。昨日は朝8時20分にホテルを出発しペシャワールのアフガン難民キャンプ地区まで出かけ、ホテルに帰ってきたのが午後7時半頃であったのでかなり疲れた感じはしたが、今朝4時半頃には目が覚めてしまった。ベッドで横になりながら、今後のことを考えながらメモしたりして、7時半頃ベッドを離れ着替えて1階の食堂へ出かけた。

 食事後、通信カウンターで昨日も不調に終わったカブールと日本へのFAX通信を頼むが、担当かかりが、依然として国際電話はビジーと返事する、でも何とかカブールSAC事務所には送付できたようだ。

我々3人のイスラマバード―カブール間の航空券(12Jun:Islamabad-Kabul:19Jun-Islamabad)は2日前の6月10日にPIA事務所で購入した(一人$240:17,440Psパキスタンル゚ピー)が、その時ザヘル氏は入手できずキャンセル待ちであった。そのため、ホテルを10時に出発して飛行場へ向かう途中PIA事務所でザヘル氏を下し、我々は一足先に10時40分頃空港に着いた。空港ロビーで、日本のNGOのアフガンでの義足支援活動の取材のためにカブール入りする日本のTVクルーと一緒になった。今回は我々と一緒のKさんは昨年、この義足支援NGOとともにカブールを訪問した、と言っていた。出国手続きが始まったが、検査、チェックまた検査、チェックと数回、大変です。搭乗待合室で再度、義足支援NGO代表のK氏やTVクルーと一緒になり、地雷被害者の家族への影響など取材狙いも耳にした。ボーディング開始直前にザヘル氏が姿を現した、ほっとする。

     

イスラマバードのホテル      イスラマバード国際空港待合室  カブール空港入国審査の天井が剝れている

搭乗前に再度チェックがあり、やっと機内に入った、サーベは搭乗券通りの席に座り、私は自分の座席に向かったが、既に見知らぬアフガン人らしき人が座っていて、何を言おうと全く席をはずす気配は見せない、困惑していると、アテンダントが手招きした、そしてファーストクラス席にKさんと2名を案内した。既に、TVクルー一行はファーストクラスに座っていた。アテンダントはオーバーブッキングを予想していたような対応であった。とにかくやっと席に着いた。13:30、PK251便はカブール空港に向けイスラマバード国際空港を離陸した、言葉では表現できない気持ちの高ぶりを感じた。

 険しい山々の頂が窓の直ぐ下に見える、山頂すれすれに飛んでいる感じ、飛行機が高度を下げ始めた、カブール上空、茶褐色の家々が整然と並んでいるように見える。高度を更に下げ着陸態勢に入ると、家の周りを土壁で囲んだ平屋建の家、庭も見える、家は日干し煉瓦造りのように見える。

 窓からコンクリート造りと思われる建物が見えた途端、ドンという軽い衝撃を受けて着陸した。壊れて傾いた飛行機の残骸や大きな鉄くずの塊がちらっと窓越し見え、しばらくして飛行機は停止した。タラップを降りると、外壁が大理石張りの建物が目に付いた、ターミナルだろう、奇麗だなと思った。その建物ターミナルに入り、簡単な入国検査を済ませて、荷物の受け取り場へ向かいターンテーブルの前に進んだが、ターンテーブルは動いていない、ターンテーブルに荷物が積まれて出てくるべき口に人々が群がり荷物を引っ張り出している、大きな声が飛び交い騒然としているが、何故か良い雰囲気が漂い、不思議なくらい危険という感じは全くしない。荷物に群がっていた人々はポーターで取り出して運んで何がしかのチップを受け取るのだと後から聞いた。混雑の中、やっと我々の荷物全部を確認した、1時間ほど過ぎていた。ターミナル出口の正面でSAC関係者と思われる人たちが出迎えてくれた、宿泊先のゲストハウスのオーナーも一緒だったと後から知った。迎えの車ランドクルーザーでSAC仮事務所へ向かった。車窓から茶褐色の山腹に階段状に家々がかなり上の方まで見える、あれらは平地に家を建てることが出来ない貧しい人々が無許可で建てた不法建築物で、監視の目を盗んで一夜で建てる者もいると、それにしても市内にあるあちこちの山に見られる、すごい数である。ちらっと畑らしいものも見える、道路端の屋台には果物が積まれている、町全体に活気が感じられる。でも、壊れた建物や銃弾の跡が無数みえる傾いた建物などが次々と現れ破壊つくされた街だ、長期の内戦と混乱の凄さを肌で感じる。

  

SAC仮事務所(借家)              車椅子支援のお礼セレモニー     破壊された建物

 メイン道路から脇道に入り、やがてSAC仮事務所建物の門の前で止まった。カブールの責任者サイエド・レザ氏が出迎えてくれた、少し高血圧気味で体調が優れないと言っていた。今日は木曜日のため、このSAC仮事務所兼孤児施設で預かり面倒をみている子どもたちは親族の家に帰っていて不在である。子どもたちは木曜日の午後に親族の家に戻り、休日の金曜日を過ごして、土曜日の朝この施設に戻ってくるという。SAC仮事務所はコンクリートとレンガ造りの3階建てで、予想していたよりずっと奇麗であった。

 支援物資荷物などをSAC仮事務所で下して、今日から宿泊するゲストハウス(朝、夕2食付き1日$35)へ行こうとしていた時、アフガンで車椅子支援活動をしているNGO(名古屋、代表O氏)に対するお礼セレモニーがそのゲストハウスで間もなく行われると言われ、歩いて2,3分のゲストハウスに急いで向かった。

 門を入った直ぐにある前庭でセレモニーが始まった。サーベ代表も急に通訳として飛び入りし、日本のTVクルーが撮影した。数人のアフガン関係者もおり、地雷被害で歩けなくなったアフガン男性が子とともにお礼を述べた、また別の車椅子の男性も謝辞をした。

 セレモニーも終わったので、2階の宿泊部屋に荷物を置き窓から外を見たら、破壊された建物の向こうに道路を隔ててSAC仮事務所が見えた。1階の広い部屋(ロビー兼食堂兼寝室)に下りていくと先ほどの車椅子支援活動NGOのメンバー3人がいた、このゲストハウスで寝泊まりしていると言う。NGO活動の先輩として、雑談しながらいろいろと教えてもらった。

 先ず、車椅子を日本からアフガニスタンまでの輸送について、当初、日本からパキスタンまで船で、その後鉄道を利用してペシャワールからカブールへ運ぶ計画をした。(アフガニスタンに入国前、パキスタンイスラマバードで滞在し、この時ペシャワールのアフガン難民キャンプ地区へ出かけた。その時鉄道線路は目にした)。しかしコストの関係で、日本から上海まで船、上海から中国国内の鉄道を利用して、カブールへ輸送したが、40フィートコンテナ3台で450万円かかった。続いて、JICA職員は給料80万円ももらっているとか在カブール日本大使館への不満に話しが移り、民間レベルでの支援活動は非常に辛いことが多いと言われた。

現地カブールの障害者協会(車椅子協会?)は名前だけであまり信用できない雰囲気だと、支援活動は自分の目で確かめ、本当に必要としている人に与えることが第一で、誰かに依頼すると支援物資がその先どうなるか不明が多い、例えば支援として届けられた救急車を一人の医者が個人的に使用している。また、アフガン人は物を欲しがるだけで、自分たちで何とかしようとしない。日本の戦後、人々は物不足で苦しみながらも、自分たち何とかしようと、工夫をして物をつくった。思考が違う、支援活動で深入りしない方が良い、と。日本人は金だけを出しているだけだ、と言われている。この国は、国連治安部隊と日本の援助が無くなったらまた、不安定な状態になる気がする。半年後に行われる選挙でカルザイ大統領がどうなるのかも予測できない、とも。障害者のための車椅子や義足支援活動は、今、国際赤十字がイタリア人チーフの元で活動しているので、日本の民間支援NGOとバッティングしている。カブールでは車椅子支援はもう必要ないのでは、とも言っていた。

カブールの電気、水、排水(下水)などのインフラ整備は進まなくて不衛生であるが、衛星テレビや携帯電話は予想以上に普及しており、アンバランスを感じる。

 私が、カブールに孤児施設と学校建設のための来ている、と知って、地震に強い鉄筋コンクリートの立派な建物を造っても、将来都合のよいように他の目的で利用する可能性が高い。一般の普通の民家は日干しレンガ造りだ、もし地震など災害が起こり、その施設学校だけが残っても意味がない、その施設に高額を使うより、もっと低額でそんなに強くない建物を沢山造るべきだ、と。

私はそうは思わないが、反論はしなかった。

 また、車椅子支援活動NGOのH氏(AJI?)が、日干しレンガ職人は1日1000個作り、250AF(1$=48AF)の収入を得ている。リサイクル品(使用済、中古品)を安く輸入すると、この国での雇用に影響する。日干しレンガの場合、レンガをロバ車で運ぶ、その道を整備する人がいる。

そう言えば、義足支援活動NGOのO氏がアフガン社会の一族主義、血縁集団(親族)の身内重視の扱いに留意するようにと、言っていた。混沌とした社会で、信頼できるのは身内だけだと、考えるのは自然ではないだろうか。

 部屋に引上げて、NGO活動の奥深さ、様々な要因を考慮して活動することなど、私の頭も混乱し始めた。

 やがて食事の準備ができたとのオーナーの声で、皆一緒に夕食を囲んだ。テーブルの上に、スイカ、トマト、キュウリ、米、ナン、豆類と鶏肉の煮込みが大皿に盛られて出された。各自、好みに合わせて小皿にとり、雑談しながら楽しくいただいた。味がどうとか、固いとか特に感じることもなく空腹に任せて食べた。

 9時少し過ぎた頃、2階の自分の部屋に戻ったが、何となく腹の調子が良くない感じがして、シャワーを使うのをやめてベッドに寝転がった。しばらくして、腹の違和感でトイレへ、軟便であった、水で流した。アフガニスタンへ行くと殆どの日本人が、腹を壊す、と聞いていたので、持参した百草丸を初めて飲んで寝た。空気が乾燥しているのだろう、秋のような涼しい風が窓から入り暑さを感じないで寝入った。

アフガニスタン紀行(岩村忍著、朝日文庫)に、初めてカブールに来た日本人は必ず下痢する、という内容が書いてあった。

バーザの地下住居へ

バーザBAZAの地下住居へ
 一休みした後、午後6時頃に明日の朝食の買い出しとグアディの町の探訪に出掛ける、主要道路沿いに教会の下まで歩いた。何時の間に何処から沸き出たのか、昼間の様子からは想像できない凄い車の列と渋滞そして鼻を襲う排気ガス(スペインは排気ガス規制をしてないと聞いたが)。教会の下を右に曲がり、人で一杯になった歩道を人の流れに従って歩いた。
 車道の車列は途切れる様子もないが、交通整理のポリさんが時々車の流れを遮って人を横断させている。そんなポリさんの指示など無視してタイミングを自分で見計らって道路を横切る人もいる。商店街の外れまで歩いてUターンし、午後8時頃には閉まった店もあったが、本屋で絵葉書、地下住居の図が載っている本を買い、その後スーパーマーケットでパン、ウインナー、果物、コーラ、ジュース、ワインと夜食と明日の朝食を買い込んで排気ガスの中をホテルに帰った。早速、共同のバス室でシャワーを浴びた、熱くはないが何とか湯が出た、洗濯もして、ロビーに干した。我々の他に泊まり客はいない様子である。部屋に帰りベッドに横になった。続いてバス室に入ったIさんが、湯が出ないと、ぶつぶつ言って帰って来た。先ほどまでは湯は出ていたのに。夜9時頃に3階の部屋から2人が下りて来て、一緒に夜食とお喋りを始めた。途中でワインの栓抜きが無いことに気が付き、誰かが1階の食堂で借りて来ることになったが、言葉は英語で通じるのか不安だがKさんがしぶしぶ出掛けたが、直ぐに意気揚々と帰って来た、店の人にワインを示して栓を抜くジェスチャーをしたら、直ぐ理解したと、世界の共通言語、それはジェスチャーと皆、変な自信を持った。アルコールに弱い私はワインを一口飲んで、皆のお喋りを聞いているうちに夢の中へ。寒くて目が覚める時計を見ると11時、暖房はない、カーデガンを着込んで、再びベッドに潜り込む。部屋が主道路に面しているので、夜中でも車の騒音が凄いが、その騒音に負けじと、ご存じIさんの鼾も競う、車の騒音が大きく部屋に入り込むと、その時、さすがの鼾も一瞬止まるが、しかし騒音が小さいと鼾はそのまま、耳栓も全く効果なく、しばらく騒音と鼾との共演を楽しんでいるうちに寝入っていた。

グラダナからグアディの地中住居へ

グラダナ(Granada)からグアディ(Guadix)の地中住居へ
グアディのクエバスへ出発する朝、長沢さんが「皆一緒に私の車で行くことにすれば」と言ってくれたが、奥さんも一緒だと定員5名のサニーに6人は無理があると思い私とK君はバスでグアディへ行くことにした。そして皆の出発準備が整う前にバス停まで長沢さんに車で送ってもらった。 日本で調べてきた「大学庭園横のAutediaバスターミナル」まで送って欲しいとお願いしたが、長沢さんは、そこではなく中央バスステイションのT.ALSINA GRALLS,SUR.S.Aからバスは出ると言って中央バスステイションへ向かった。到着して、バス会社の窓口で長沢さんが確認したら、ここではないと。係の人に道を聞き、そちらへ向かうが途中道が分からなくなってしまい予想外に時間をとってしまった。結局は日本で調べてきた「大学横のバス停」から目指すバスは出ること分かり、そこでバスの発車時間と乗車バス名を確認してくれた後、自宅のクエバスへ戻って行った。
バスの発車まで時間があったので地図を頼りに、グラナダ駅まで歩き、記念写真を撮り、そして駅前をぶらぶらして時間をつぶし、最後に果物店でオレンジらしきものも買い込んだ。Autedia S.Aより1115分発のGRADANAALQUIFEの標識のついたバスがGuadixグアディへ行くことを確認して乗り込んだ、バスは予想していたより新しく大型であった。この種のバスに乗車する呼吸はチュニジア旅行で体験して身に付いているので不安はなかった。このバスの終着駅ALQIFEの1つ手前のバス停がGuadixである。
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   RENFE(鉄道)グラダナ駅       RADANAALQUIFEのバス   バス車窓からのグラダナ遠望
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山肌が脆そうな岩山の間を進む  遠くの地中住居らしき建物      白壁が目立つ地中住居
1122分バスは出発した。後部座席からグラナダの町並みに見とれていたら、しばらくしてグラナダの町を見下ろすような峠にさしかかっていた。車窓を流れる風景は少しずつ変わり1152分頃には、両側が脆そうな石灰岩のような岩山になっている小山の間の道を走っている、山裾には杉の樹木が見え、道路際の土は鉄分が多く含まれているような茶色である。1210分頃、山肌が脆そうな花崗岩のような感じにも見え始める、一帯が荒涼たる気配はするが、時折緑があちこちに現れ、チュニジアとは趣を異にする風景が続く。やっと家らしきものが現れ始めたと思って見ていると、あー!地下住居、スペイン独特の形をしたクエバスが道端の家々の間から遠くに見える、胸が高まる。この辺りの町は、地図で見たプリューナだろうか、行きかう車も多くなる。やがて、教会らしい大きな建物が見えたと思ったらバスは停車した。きっとグアディだと思い、運転手に確認して下車し、バスの横下にある荷物入れからバックパックを取り出しながら、運転手に鉄道駅への道を「Quiero ir a Estation de Renfe ?」と尋ねると運転手「歩いてか・・」と足を触って言うので、「ウイ・・」と答えると、指で方向を示しながら早口で喋った、何を言ったのか理解不能であったが、一応お礼を言った、1240分頃である。
スペイン鉄道(RENFE)のグアディ駅で長沢さんの車で来る皆と合流することになっているのでと思い、周辺を見渡すが何も見当たらない。バスの運転手が指さした方向へ歩き出すと、道が何本も交差している所に来て困ったが、そこは山勘で道を選び進む、歩道を向こうからやって来た中年の男性に再び聞く、進む方向は間違っていないことを確認して歩き出す。舗装はしてあるが埃っぽい道を更に約20分歩くと両側に連なっていた建物が疎らになった。しばらく行って、ガソリンスタンドで道を聞く、指さす方向は、向かっている方向で間違いなし、ホットする。夢中で歩いていたのだろうか、気がつくと汗をかいている、暑さも感じる、道端でリックを下ろし、服や長袖のスキー用シャツも脱ぎ、一息入れる。透きとおる青空、直射日光の強さ、オーストラリア・クーバーペティを旅した冬を思い出した。再び歩きはじめるが少し不安になり反対側の歩道を歩いてやって来る親子ずれに尋ねると「この道を真っすぐ行くと鉄道の線路があるので、それを横断して最初の道を左に折れて行けば良い」と教えてくれた。話すことが良く理解できたね?そうだ英語で説明してくれたのだ、私が少し齧っただけのスペイン語で尋ねたのに、何と心優しい人よ、嬉しくなった。RENFE鉄道の線路を横断して左折すると、手前の丘にスペイン地下住居クエバス独特の洞窟の煙突が見えた、会いたかったクエバスが直ぐ近くにある!胸が躍る、通りすがりの少年にまた尋ねると、そこだとジェスチャー1320分グアディの駅にやっと到着した。人一人いない駅の改札を通りプラットホームに出て、そこのトイレで用を足した。そして駅前の小さな広場の段に腰を下ろして日差しを浴びながら、車で来ることになっている長沢さん一行を待った。
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グアディ(GUADIX)駅ホームのWC   禿山の地中住居(洞窟住居)  英国女性ターニャさんの地中住居
道に迷ったのか、何か途中で事故でも起こしたのかと不安が過ぎる。1350分頃に見慣れたサニーが目の前に現れホッとする。Iさん、Hさんは乗っていたがバーバラさんは仕事が入り来ることができなかったとのこと、自動車に6人は無理だと思い、気を遣ったのに。途中道に迷って時間がかかってしまったと言い訳していた。
早速、長沢さんは駅前の公衆電話に向かい、GUADIXの洞窟で生活している英国女性ターニャさんに電話し、この近くのバルで落ち合うことになった。少し移動して、待ち合わせ場所のバルを捜した、看板は見つけたがそれらしき店はないので、うろうろしていたら砂塵をまきあげて、一台の車が駅前広場に止まり、女性がにこやかな顔で降りて来た、きっとターニャさんでしょう。長沢さんと挨拶を交わした後、我々も一緒に駅のプラットホームにあるCaffeに入りコーヒーを飲みながら、二人は久しぶりであった様子で話が弾む、その脇で我々は、ボケーとしていた。
やがて、ターニャさんの車を先導に、長沢さんも初めての訪問だというターニャさんの洞窟へ向かう。ふと2人はどのような関係なのか、と思ったが、どうでも良いことなので止めた。鉄道の線路に沿って砂埃を上げながらしばらく進み、踏切らしき所で線路を横断し、再び線路に沿ってでこぼこ道を進むと目前に、西部劇の世界を連想させるような小高い禿山が幾つか見え始めた。スペイン地下住居クエバスの特徴である白い煙突は見えないかと目を凝らす、しばらくして、禿山がにょきにょきと見える場所で車は止まった。車から下りると、これが地中住居(洞窟住居)?と思えるほどの住まいが眼前に現れた。スペインの明るい直射日光を正面に浴びて、白くきらきらと輝いている、茶色の砂岩と真っ白いフォサードのコントラストが鮮やかで金持ちの別荘かと思えるほどである。
坂道を登ってターニャさんの家へ向かう、生け垣のある広い前庭もある。門の前で、車にスキー道具を積み込んでいる主人に紹介される、友人とシェラネバダ山へスキーに出掛けるところだと言って、我々の到着とは関係なしに、支度が整うと出掛けてしまった。
ターニャさんの許可を得て、家の中を見せてもらい、間取りの調査に取り掛かる。前以て、長沢さんから言われ用意しておいた3000ペセタをターニャさんに長沢氏が手渡した。この地中住居の内部は明るくて広く、豪華な感じさえする。立派な家具調度品、電気製品の整った台所、主燃料はプロパンガスだとのこと。2人のお子さんが恥ずかしそうに顔を出し、遠くからチラチラ様子を見ていたが直ぐに慣れて、調査測定に興味を示し、ちょっかいを出してきた。2人は、途中でターニャさんが作ったパエージャの昼食を玄関広間で食べさせてもらっていた。
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     ターニャさん宅の玄関前                  食 堂                     寝室 
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        明るい台所                    2階書斎へは外階段で        間もなく完成する書斎
最高最低温度計を入り口玄関広間の棚の上、その奥のホームバーと思われる奥の棚、右奥の夫婦寝室、それに2階の書斎(一年がかりで、主人が掘って作り始め未完成)の本棚に設置させてもらった。外気の測定器は、犬や猫に蹴飛ばされないようにブロックで保護して、生け垣の下に自記温湿度計とともに設置した。この洞窟住居は、5060年前に作られたもので、6年前に買い取り、改修をした。現在2階部分を1年がかりで掘って、技術学校の教員(スペインでは先生になるのは大変で、大学を出て何年も挑戦してやっとなれと言っていた。)である主人の書斎を作っているのだと、見せてもらったが、本棚が作られパソコンも置いてあった。2階への外階段から眺めると、あちこちに崩れた洞窟の跡が見える。この一帯も昔は多くの貧民がフランコ政治を逃れて、洞窟で生活していたという。今は外国人(ドイツ人?)が住んでいるという隣の住居もターニャさんの地中住居に負けず劣らず立派に見える。
午後2時から4時までに間取りを中心とした測定調査と温湿度計の設置を終えて、明日午後4時頃再び来ることを約束してターニャさんのクエバス住居を後にした。
来た時と同じ道をグアディの町まで戻り、道路沿いの食堂で午後420分頃から40分かけて定食、マカロニ、卵焼き、コーヒー、パンそしてビールより高い?ミネラル水を注文し、遅い昼食を食べた。5人で3250PST払ったが、お腹が空いていたのかとても美味しかった。この車でグラナダへ皆で一緒に帰るよう促す長沢さんの誘いを断って、ホテルを探し、グラナダへ向かう主要道路沿いの町外れで、壁にカマスと書いてある3階建の店を見つけて車を下りた。1階は飲食店で23階が宿泊室となっている、長沢さんが交渉してくれて、宿泊室を見る、隣にあるトイレとバスは共同だが、1室900PSTと安いのでここに決めて、長沢さんと別れた。有難いことに長沢さんは明日10時頃に再びここに来てくれると言って、グラナダへ帰って行った。
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      グアディ町外れのホテル前          宿泊した室
 

崖寄り添い住居セテニール3

ついに崖寄り添い住居の中へ    穏やかな老夫婦と出会う
 「オーイよさそうだぞ~」とIさんの声、一番外れの住居の前に老人が出て来てニコニコしている様子が見えた、近づいて挨拶すると、何と!中へ入れと手招きする、思わず手を差し出し握手をした。
 恐る恐る家の中に入ると、中にいたおばあさんもにこにこしている。しめた!何とかなりそうだ、心が踊る。入り口の間の居間で老夫婦と早速雑談する、と言っても、言葉は全く通じてない様子。
 壁にかかっている多くの写真に目がとまり、写真を指さして尋ねると、水を獲た魚の様に二人が先を争って話し出した。
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 招いてくれた老夫婦の住居        温かみを感じる奥様     写真一杯の居間
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素晴らしい二人                  子供の寝室            台所、風呂、食事室がある別棟
    
1枚目の写真は子供が小さいころ2枚目は息子の結婚式、3枚目は息子の子供、つまり孫の写真で現在マドリッドに住んでいると。4枚目は海軍の制服姿の若者、5枚目は娘さんその横に子供とおじいさんの写真、次から次と嬉しそうに話す老夫婦の話は尽きない。
私が居間で老夫婦と雑談している間に、3人は内部の写真を撮り、部屋などの測定もした。2階建てで2階には子供部屋があり子供たちが何時帰ってきても良いようにと昔のままベッドが3台置いてある。1階は入り口直ぐ横の居間とその奥に夫婦寝室があり、一階部分の奥行きは最初想像したよりも深いことが分かった。だが、食事室や台所、風呂などが見当たらない。二人の写真撮り、住所と名前を手帳に書いてもらって外へ出て、家の前で記念写真を撮って別れようとしたら、道を隔てた向かい建物を示し、この家も見ていけと言う。中に入ると、ここに台所、風呂、食事室があり室内はタイルなどで仕上げてあり綺麗である。更に先ほどの住居の隣の大きな扉を指さして、開けてくれた、ここが物置、倉庫でこの壁は傾斜した岩肌むき出しであった。
私の調査旅行にはいつも救世主が現れますね、感謝です、これでセテニールの「崖寄り添い住居」の図面を描くことが出来ます。
老夫婦との別れを惜しみながら、列車の時間もあるのでホステルへの道を急いだ。歩きながらふと思った、老夫婦とは言葉が通じないのに何故、あのように話が弾み談笑出来たのか不思議でならない。一生懸命育てた子供達が立派に成長し活躍している様子を、初めて会った見知らぬ外国人に嬉しそうに自慢げに話す老夫婦の気持ち、そして自分たちが苦労して岩を掘って作り子供たちと過ごした住居で楽しい思い出とともに老後を過ごす生活の中に平和な日々が流れているのか、真の気持ちを推し量ることはできない。ふと寂しさが込み上げてきた、何故だろう。
 
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                             白くて優しい村セテニール           何度も振り返りながら駅へ歩く
一直線に延びた単線路をアルヘシラス行きの鈍行列車が颯爽と太陽の日差しを正面から受けてホームに入って来た、ほぼ定刻である。逆方向ではあるが昨日同じ路線の列車でグラナダからこの田舎町セテニール駅に着いた時も時刻表どおりであった、漠然とスペインの地方列車の定刻運行は希ではないかと思っていたので、少々感心した。下車する人はぱらぱら、いつの間にか駅長がホームに立っていたが、チラッと我々を見ただけで何も言わない、ユーレイルパスの威力か、でもこの駅では改札や検札もないのですよね。この駅からの唯一の乗客である我々が乗ると列車は動き出した。乗客は少なく数人が座していたが、乗り込んだ我々をちらっと見ただけである。
もう一度来たいセテニール村、でも二度と来ることはないかも知れない、すぐに見えなくなってしまった遠くの白い村よ、幸せに。またね・・・。

崖寄り添い住居セテニール2

洞穴住居を訪ねる旅―スペイン、セニール-2 
「崖寄り添い住居」の室内を見たい
その後は耳栓のお陰様で寝ることが出来たようだ。心地よく目覚めて、時計を見ると740分。スチーム暖房のお陰で部屋は暖かい、起き上がってトイレに行き、帰りに昨日浴槽で洗濯して室内に干しておいた洗濯物に手をやると、さすがよく乾いている。何か耳が気になる、昨夜耳栓をしたことに気が付き取り出そうとしたが出て来ない、指でつまみ出そうとしてもますます中へ入ってしまいそう、執拗に何度も取り出そうとするが駄目である。腹立たしげに仕方なく諦める。でもヤッパリ気になる。
8時頃にやっと窓の外がうす明るくなってきた。昨日グラナダ18時過ぎてもまだ太陽は山の頂上付近にあったことを思い出した。スペインは首都マドリッドが西経3.7度、バルセロナが東経2.2度、サンティアゴ・デ・コンポステーラが西経8.6度と東西に長いが、全土で標準時間として中央ヨーロッパ標準時間(+1時間)を使用している。日本で慣れている時刻と太陽高度の関係と少し違っているような気がした。
8時半頃、隣室の2人に廊下から声をかけるが、全く反応がない、まだ寝ている様子。ドアをノックするが反応なし、仕方なく強くドアを叩いた。「寝過ごした!」と言って起きて来た。疲れと部屋の快適さとでグッスリと眠っていたとのこと、これも若さですよ。急いで支度をして部屋に荷物を置いたまま9時頃ホテルを出て村へ調査に出掛ける。空気が冷たくヒヤッとしたが、気持ちの良い朝の空気を身体一杯に吸いながら坂道を下り町中に向かい、クエバスらしきものはないかと周囲を見渡しながら川沿いに歩いた。しばらく探し歩いたがクエバスらしきものは見当たらない、急に空腹を感じる、無理もない何も食べずにホテルを出たなりである。朝食するような場所はないかと歩いて行くと、橋のかかっている三差路で「CUEVASと写真機」の案内看板を見つけた。看板に従って、右の道を川沿いに進むと両側に岩の崖が現れ、気がつくと崖の下を歩いている。歩いている道の更に下方の谷底に水が流れているのが見えた。Vカット断面状の谷底に流れる川の両側に幅約56mと34mの道があり、その谷底の崖に沿って岩屋住居が崖にへばり付くように連なっている。歩いている道(幅約56m)の約156m上の崖の頂部には小道が見え、更に野菜畑やオリーブ樹木園が広がっている様子も見える。対岸に見える粗末な掘立て小屋風の崖寄り添い住居に比べ、こちら側の住居は、奥行きこそ岩の崖に阻まれて24mと思われるが道に面した正面の外壁はレンガやブロックが積まれており23階建てと見うけられる白色の外壁が連続している様子は瀟洒な感じさえ受ける。外壁の様子を写真に撮ろうとしたが、逆光であるため午後に再びこちらへ来ることにして引き返した。
三差路まで戻り今度は左の道を進み、自動車がやっと通れる程の狭い坂道を上る。上るに連れて、眺望が開けてきて家々の白壁が朝日に反射して眩しい。傾斜面にへばり付くように建て込んでいる家々の間を縫うように続く石畳の小道を上る。その小道沿いにあった小さな店やでパン、牛乳、ハム(ベーコン?)、オレンジ等自分の好みの物を買い込んで、町の中心と思われる場所へ向かう。途中、公衆電話ボックスを興味深そうに覗き込む。10時頃、銀行兼郵便局を見つけて210USドルを両替したが、レートの高低などに気が回らなかった。バルなどの店があり、車も23台止まっている広場にたどり着いた。バルでコーヒーを注文して椅子に座り、先ほど買い込んだパンと一緒に食べる。何となく体がだるい。
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町の中心部                                     掘立小屋風崖寄り添い住居 
 
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近代風な崖寄り添い住居                  覗いた室内も漆喰で綺麗
崖寄り掛かり住居の内部が知りたくて、家の前で遊んでいた子供に声をかけ、返事も聞かずに中を覗き込み写真を撮り、更に隣の部屋で食事をしていた家族の様子もとカメラを向けたが、主人に断られて、渋々外へ出た。でも素早く間取りを頭にたたき込み概略の間取りを推測した。奥行きは約4m1階に2部屋あり、覗いて入り込んだのは2階部分で、玄関と居間、そのとなりに食事室(4×4m)があり食事室に階段があり、3階は屋上のベランダ(洗濯干し場)へ出るためのペントハウスがる。3階建てで屋上には迫り出した崖にひっつくように、白く塗った貯水用のドラムカンが置いてある。外から写真を数枚撮らしてもらった。
町の中心部を離れ、村全体を見るため更に坂道を上る。西側の高台にたどり着きそこから眺めると、この白い村は緑の山に抱かれた崖の村、遥か遠くの北東の山の頂付近にも白い家々が見える、あそこにもこんな童話のような村があるのかな~ともの思いにふける。太陽にきらきら光る家々を見下ろしていると、今は冬だが、この地の夏の暑さや夏の太陽光の凄さが想像できる。それにしても、人はどこにでも住めるのだな~、そして住めば都か、白壁と薄茶色のスパニッシュ瓦、人間の大きさと温かさと、自然を大切にした村、セテニール。風がそっと頬を撫ぜた、なんだかとても嬉しくなってきた。
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          西側高台からの眺望                 高台端に見える教会 
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          対岸の崖下住居                  連なる「崖寄り添い住居」
この高台の端に大きな建物があり、教会だと言う、行ってみたい気持ちはあったが疲れを感じていたのでそこまで足を延ばすことなく高台を後にした。冬とはいえ汗ばむ陽気に崖の日蔭で休みながら急坂を下り、朝通ったクエバスの連なる谷川沿いの道に出た。
人が生活しているクエバス、生きているクエバスの内はどのようなものなのか、奥行きは、内部の壁は、天井は等など、知りたくて、半開きになった入り口から中を覗き込みながら歩くが、どのクエバスも内部はなかなか見ることが出来ない。外にいる人にカメラを見せて、ジェスチャーで室内を撮らしてくれないかと頼んだが、皆、手を顔の前で振り、駄目ですと断られた。そうですよね、突然見知らぬ人間がやって来て、家の中を見せてくれと頼まれても、殆どの人は断るでしょう、自分でも日本で躊躇します。それにしても、今まで見たこともない住まい群なのです。地下式、地中式との表現は当てはまらない、洞窟形式でもない、ひと先ず「崖寄り添い住居」としておこう。外から見景観はこの地の自然とマッチしていると感じる。内部はどうなっているのか、と思うのは当然でしょう。先へ先へと歩き、連なる「崖寄り添い住居」群が途切れたところで、小休止した後、これぞ「崖寄り添い住居」と思われる家の外観の写真を撮る。更に、川沿いに歩き、とうとう住居群の外れへ来てしまった、この先にはもう住居は無さそうだ。ついに内部を見ることは出来ないのか、と道路の真ん中に立って対岸の崖寄り添い住宅と崖の上の教会を見上げた。すると・・・
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             崖寄り添い住居上方のオリーブ畑         崖住居の上の教会
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           迫り出した崖下の崖寄り添い住居 
 

崖寄り添い住居セテニール1

SETENIL(セテニール)
ロンダRONDAの北18Kmのところにある白い村。村まで少し歩くが鉄道駅がある。村の中心の高台にある教会から白い家の連なりが至近距離で見える。しかし、この村で見落としてはならないもの、それは洞穴住居だ。道路に沿って、防空壕のように、横穴をうがち、地表に煙突をのぞかせた家が続く。入れてもらってみると、意外に広く、清潔でヒヤリと涼しい。ここから15Km北上したところにあるOLVERA(オルベラ)も、山上の城と教会を中心に広がったきれいな白い村だ。
グラダナ駅から列車でセテニール駅へ向かう
ホームに列車が入って来た。乗る列車を間違えるといけないので時刻表で再度確認する、と言うのはグラダナからはセビリア方面とアルヘシラス方面へ向かう列車が出ており、途中の駅(駅名忘れた)で別々の方面に別れるからである。駅員で列車係と思われる人に近づき「エステトレン バ ア ロンダ? 」とやや大きめの声で話しかけた、彼が「ウイ・・・」と言って肯いた。間違えない、3人に合図して列車に乗り込んだ。
我々は一等席(日本のグリーン座席)乗車が可能なユーレイルパスを持っていたのですが、この列車は全席二等の自由席のようです。窓からプラットホームをみると、駅前で見かけた日本人女性二人がまだうろうろしていたので声をかけようかなと思っていたら、乗車列車が分かったらしく乗り込んで来た。彼女たちは大きな立派な旅行用スーツケースを持っており、身なりも我々とは少し違うので、普通のリッチな観光旅行のようでした。列車が動き出したので座席につくと別の若い日本人カップルが斜め前に座っていた。服装から、我々と同じか少し上の旅行をしているようで、親しみを覚えた。話しかけると途中Bobadillaの駅で降り乗り換えてセベリアへ向かうと言った。二人はフランスパンを切り、ハムを挟んで食べながら「いいですよ、このような旅は・・・・」と嬉しそうに笑った。私もグラナダの駅で買い込んだパン(ハムはなし)とジュースを同じように口にしながら談笑した。しばらくすると、パンや飲み物などを乗せたカートをひいた少し太めの女性が通路をやって来た、そうか車内販売もあったのだ。
対面式の4人掛け座席スペースを一人で占領して両足を前席に投げ出し、ゆったりと移り行く珍しい車窓の景色を楽しむ・・・いいですね旅は、パリからの列車線路の地図を頭に描きながら、でも随分遠くへ来ましたね。  
斜め前に座っていたカップルが軽く挨拶してBobadillaの駅で乗り換えのため降りていっイメージ 2た。しばらく停車していた列車が動き出した、車窓に流れる景色をぼんやり、ゆったりと眺めながら何処かに何と似ている、以前見たような・・・チュニジアでしたかね・・・雰囲気がよく似ている風景です・・・一面に植林されたと思われるオリーブの木、木・・でも周囲の緑が随分多い、チュニジアでは茶色い風景という印象が残っている。
車窓から見えるオリーブの木     うとうとと眠ってしまったようだ、列車が随分登っている様子イメージ 3に気がついた。登り切ったのであろうか少し平坦な線路を進
やって来ましたセテニール
    
んだ。しばらくして、見るからに寂びれていると感じる駅に停車した。ホームの掲示板にAtalayaとある。早速、時刻表で確認すると、次駅がセテニールであることが分かった。走り出した列車が間もなくして、ホームに止まった。不安と期待と
嬉しさとの中、心の中で「来たぞ!」と叫ぶ。私達のほかに数人が下車しただけで、乗る人はいない。ホームに降りて、重いリックを背負い、入り去っていく列車を見送った。何なんだこの駅は、駅舎のほかには何もない、本当に何もない、それでも記念にとセテニールの駅名の看板を入れて写真を撮った。一人 だけいる駅員兼駅長さんが不思議そうに、用心深く我々を見ているのみ気がついた。この駅で降りた人達は迎えに来ていた自動車でそれぞれ走り去って行ってしまった。
セテニール駅から町へ向かいホテルを探す
右も左も分からないから、駅舎を覗きこんで駅員兼駅長さんに尋ねてみた「ドンデエスタ クエバ? 」キョトンとしていた駅長さん、ワンテンポあってから、それスペイン語ね、という顔をして、何か言って、行く方向を指で示してくれた。彼が何と言ったのかハッキリと理解できなかったが、私の拙いスペイン語が通じたことを信じて、示された道を歩き出す。でも不安は拭いきれない。道の真ん中に立つと、線路と直角に交わる幅約6~8mの道が真っすぐ伸びており、両側は畑と荒れた草地だけ、その外のものは何も見えない。16時過ぎだというのに太陽は結構高く日射は強い、途中砂埃をあげながらやって来た1台の自動車とすれ違った、自動車が来るというのはこの先に町が在るからのだと言い聞かせながら、期待を込めて考えながら歩いた。駅から西へ25分程歩くと、逆光の中、遠くの山に抱かれた白い村が目に入ってきた。ポケットからデジタル温湿度計を取り出す22℃、32%時刻は16:50、真冬でもさすがここは南スペイン、暑いので途中シャツを脱いで、汗を拭いイメージ 4た。でも、あの白く見える村まで歩き、何とか今夜の
この先に町があることを信じて黙々
と歩く
寝る場所を確保しなくてはと、口数が少なくなり黙々と歩いた。
  途中で広い農地の真ん中にぽつんと家が見えた。道の両側はオリーブの木だと思っていたが、ナツメヤ
シとも違うし、少し何だか違う、近付 いて実をしげしげと見ると大きなドングリである、食用か、あるいは、失礼して一つポケットに入れる。ゆっくりと左にカーブして坂道を下る。やっと村の入り口らしきところにたどり着いた、駅から約1時間30分歩いたことになる。CAPS?の看板が掛っているガソリンスタンドを右に見て、歩いて来た道とT字に交差している道を左折して村の中心へ向かうであろうと期待して、緩い坂道を下って行く。疲れていたが、今までの経験で村の中心部にホテルはあると期待して進む。左側に道に沿って川が流れているのに気がついた。
橋がかかっており、ロンダ10Kmと左に矢印。そのまま坂道を真っすぐ下る、途中道が二つに別れているところで、どちらに行くべきか迷っていると、若い女性が数人向こうからやって来た「ドンデ エスタ オテル」と尋ねると、何か言って、逆方向を指さし笑っている。そこで、重ねた両手を顔の横にやり、顔を傾けて寝るスタイルをした、ジェスチャーですよ。すると、彼女が、今来た道を戻れとのジェスチャーをした後、大きな声を出して笑っているので、からかわれているか、と思ったが。不安になり、別の女性グループに「ドンデ エスタ セントロ?」と聞くと、そのまま進めと言う。どちらを取るべきか迷ったが、ホテルは町の中心部にあると思っているから、そのまま町の中心部へ向かった。しばらく歩いて、再び中年の婦人に会ったので、ホテルの場所を聞くと「町に行ってもホテルはない」と言っているようだ。そして、今来た道を戻るよう逆方向を指さす。
手帳に記録しておいたホテルの名前Pension Almendralを見せると、肯いて自信をもって、逆方向を指さす。やれやれ、今来た坂道を仕方なく戻る。来たときは坂道を下って来たので今度は上りである、疲れも重なって足が重い、先ほど通った村の入り口にあった橋の近くで、すれ違った若者に聞くと、橋を渡った高台に瀟洒な一見してペンション風の建物が立っていた。近付くとHOSTAL, RESTAURANTE-BAR-PISCINA El Almendralの看板が道路からよく見えるところにかかっている、村に入るときになぜ気がつかなかったのだろうか、建物への階段を上って行くと、若者達が元気よくバスケットをやっている、オスタルの前には広いグランドがあった。入り口から中へ入って行ったが、受付には誰もいなかったので、更に奥へ入って行き、バーのカンター内にいたマスター?従業員風の男に空部屋はないかと尋ねた。ここでもインスタント勉強が役に立った「Tiene una havitacion,livre? doble,dos」 と指を2本立てて見せた、彼が「・・・」と何か言ったが、構わず「con ducha?」と一方的にたたみ掛けると、何とスペイン語ここでも通じたようです。何か帳面を調べていたが、うなずく、しめた、後は得意の「Cuanto cuesta?」と壁に貼ってある宿泊値段一覧表を見て指さし、これかと聞くと「ウイ」、13000pstです。早速、宿泊カードに必要事項を記入して、2室分6000pstを支払い、鍵を受け取る。案内された部屋は予想以上に良く、バス・トイレ付それにヒ-ターまでついている、今夜はゆっくり寝むれそうだと荷物を置いていると、係の男の人が部屋へ来て、部屋を代われと言う仕草、何事かと尋ねると、バスルームへ連れて行き、排水が悪いとジェスチャーで教えてくれた。ニッコリ笑って肯き、鍵を交換して隣の部屋へ移った。ホテルの親切なムードが分かる。
凄い蛇口から勢いよく湯が出た、早速入浴し、バスタブで下着や服の洗濯をした。気分良く、お先に失礼しました、ここはお湯がたっぷり出るよ、とIさんに声を掛け、部屋にロープをはり大量の洗濯物を干した。後から入ったIさんが、湯が出ないとバスルームで騒いでいる、そう言えば数日前のGUADIXのホテルでもこんな場面がありましたね。GUADIXのホテルでは、あれは湯ではない水だ、とぶつぶつ言ってバスルームから出て来て急いで服を着ていた。何故でしょう、湯の温度が問題なのでしょうか、それとも貯湯分を私が使ってしまうため、ボイラー内の水温が一時的下がり、湯ではないと感じる、その様な結果となるのでしょうか。しばらくして、私が洗面所の蛇口をひねると、ややぬるいが湯が出た、しかしIさんに言わせるとこれは湯ではない水だと、少し機嫌が悪い。
ひと休みして、一階のレストランへ出向く、メニューを見ても何が何だか分からないので、旅の案内書の食事のページと睨めっこしながら、お進め料理825Pst(1人前)を注文したら、出てきたのは、油身の多い肉がメインの料理でした。まあ、美味しかった。空腹は最大の美食ですね。H君もスペイン語を覚えてきましたので早速、セルベッサ(・・ビール)と注文、私はアクア()100Pst、うん、この国ではビールより水が高い場合もあります。音楽が大きなスピーカーからガンガンと流れ、隣のBARではドリンクと騒々しい会話が聞こえる、この時間はまだ夜の食事時間帯ではないらしい。
部屋へ帰り午後8時30分頃私は早々とベッドに入りこむ。3人がベッドの端に腰掛けて、今日の金の清算を始めた。誰から誰へいくら、小銭がないから借り、とか言っている。私は手もちのペスタは0円(今日一日)で、全額借りであるので気分がらく、知らないうちイメージ 1に寝入ってしまった。
例によって、隣の御仁のいびきで起きる、時計を見ると午前2時である。やれやれ、彼とは長年の付き合いだが、まだこの鼾には慣れていない、奥様は慣れてみえるのか、とぼんやり頭で思い巡らせる。気の優しい彼が、この耳栓をして寝てくれと、渡してくれた。そのスポンジの耳栓をした、慣れないので気にはなるが、確かにいびきの音は小さくなった。
 
 
耳栓をして寝たセテニールのペンションの部屋